「僕のおとうさん」と「お友達のおとうさん」 (C A4)

大事なことなのでもう一度。

内容:

固有名と一般名

第2回メイン資料p.1「予定」より:

言語としての数学」との付き合い方と使い方(のスキル)を習得する。

これは、「数学における言葉や記号の使い方、コミュニケーションのスタイルに慣れてください」ということ。

数学における言葉や記号の使い方、コミュニケーションのスタイルの特徴のひとつに、次がある。

  • 固有名(特定の個体/個物だけを指す名前)が、いつのまにか役割・立場・機能的特性などを意味する一般名に流用される。

日常では、固有名詞が一般名詞に流用されることはあまりない。強いて例を挙げれば:

  • 彼女はシンデレラだね。

架空の人物ではあるが固有名詞である「シンデレラ」を、「短期間で成功した人/夢がかなった人」一般を指す目的で使っている。彼女の実際の名前が「シンデレラ」なのではない。

  • 僕はマスオさんなんで、…

これも架空の人物ではあるが固有名詞「マスオ」を、「婿養子」(家庭内の立場)の意味で使っている。自分の名前が「マスオ」だとは言ってない。ちなみに、マスオさんは婿養子ではない。フグ田マスオであって、磯野マスオではない。嫁の実家に同居しているだけ。

  • あのじいちゃんは、この町のエジソンだ。

実在の人物の固有名「エジソン」を「発明家」の意味で使用。

1 は 1 だけではなく、単位元一般をも指す

集合N上の、普通の(小学校以来お馴染みの)半環構造と、max-plus半環の構造を比較してみる。

半環一般 普通の半環構造 max-plus半環構造
台集合 N N
足し算 + max
足し算の単位元 0 0
掛け算 × +
掛け算の単位元 1 0

max-plus半環において、掛け算の単位元は 0 だ、という事実がある。これを、

  • max-plus半環において、イチは 0 だ

といってもいいだろう(「イチ」は「掛け算の単位元」の意味だとして)。が、「イチはゼロだ」とか「1 は 0 だ」という部分だけを聞くと、非常に奇妙な印象を受けるだろう。さすがに「1 は 0 だ」は混乱をまねくから言わないだろうが、次の言い方/書き方は珍しくない。

  1. 実数のイチも、1 と書く(区別したいときは、1.0 と書いたりもする)。
  2. 単位行列も、1 と書く(区別したいときは、I〈大文字アイ〉と書いたりもする)。
  3. 単元集合も 1 と書く(区別したいときは、1〈太字のイチ〉と書いたりもする)。
  4. 真偽値の真も 1 と書く(区別したいときは、T とか true と書いたりもする)。
  5. 恒等写像も 1 と書く(区別したいときは、id と書いたりもする)。
  6. 恒等自然変換(知ってなくてもいいです)も 1 と書く(区別したいときは、ι〈ギリシャ文字イオタ〉 と書いたりもする)。

もともとは、「自然数のイチ」だけを表す固有名だった縦棒の記号「1」を、なにかしらイチっぽいモノを表すためにオーバーロード(多義的使用)する。つまり、次のような流用・借用(ときに意図的誤用)が行われる。

  • 特定のモノ(例えば、自然数のイチ)を表す名前・記号が、一般的な意味(例えば、なんらかの二項演算の単位元)としても流用される。
  • 元〈もと〉とは違った個別ケース(例えば、行列の単位元、恒等自然変換(知ってなくてもいいです)、真偽値の真)にも同じ名前・記号が流用される。

結果的に、一般論でも様々な個別ケースでも、同じ名前・記号が激しくオーバーロードされることになる。非常に紛らわしく判読困難になるが、実際にそうなのでどうにもならない。慣れるしかない。

文脈ごとに解釈を変える

檜山は、過剰なオーバーロードはやめて欲しいと願っているが、檜山ごときが何を言っても状況が変わるわけもなく、愚痴を吐き悪態をついて憂さ晴らしをするくらいがせいぜい。愚痴の例は(↓)。

ただ、致し方ない事情もある。概念の多様さに比べて、使える記号が圧倒的に不足している。例えば、順序構造の順序を表す記号は「≦」と「⊆」くらい。「⊆」は集合の包含のイメージが強いので、一般論では「≦」が使われる。気を使って、一般論では「\sqsubseteq」のような変わった記号を使う人もいるが、少数派。

つまり、多くの人は、

  • 普通の大小順序に限らず、一般的な順序構造の順序にも、記号「≦」を流用する(オーバーロードする)。

大小順序、一般的順序の両方に「≦」を使うだけでなく、大小順序ではない他の具体的順序にも「≦」を使うこともある。例えば、N上の約数倍数順序には、広く合意された記号がない(縦棒「|」を使う人がいるが)。しょうがないので、約数倍数順序に対しても「≦」を使うことにすると:

  • 3は9の約数である ⇔ 3 ≦ 9
  • 20は5の倍数である ⇔ 5 ≦ 20

「3 ≦ 9」「5 ≦ 20」は、大小順序と区別できず、大小順序と解釈しても正しい命題である。ところが、

  • 3は5の約数ではない ⇔ 3 ≦ 5 ではない
  • 0は5の倍数である ⇔ 5 ≦ 0

「3 ≦ 5 ではない」「5 ≦ 0」は、「≦」を大小順序と解釈しては間違いだが、「≦」を約数倍数順序と解釈すれば正しい命題。

まとめると:「1」や「≦」のように、非常にお馴染みで、その意味が長年固定されてきた記号であっても、文脈によっては別な意味で解釈する必要がある。記号と意味を固定的・絶対的だと信じる習慣(信仰?)をただちに捨てて、記号と意味の結び付きはお約束/文脈に応じて柔軟に変えられるようにする。

当日のスライドも再度参照。ただし、スライドはそのうち消すけど。

役割に注目する

口頭で、むかーし、子供と見たEテレの子供番組の話をした。その話をもう一度する。まず、状況設定:

鈴木家 佐藤家
鈴木明 佐藤隆太
長男 鈴木一郎 佐藤隆史
次男 鈴木二郎

この設定で、次の会話は奇妙だろう。

隆史「昨日、おとうさんがケーキ買ってきてくれて食べたよ」
一郎「えー、俺、ケーキ食べてないよ」

なぜなら、「隆史のおとうさん」と「一郎のおとうさん」は人間として別人であり、隆史と一郎は別な家庭に所属するのだから、佐藤家でケーキを食べることが、鈴木家でもケーキを食べることを意味しない。

もし、一郎が冗談でなく本気で発言したとすれば、一郎の認識は次のようになる。

  • 「おとうさん」とは、僕のおとうさんである鈴木明を意味する言葉である。隆史の発言は「昨日、鈴木明がケーキ買ってきてくれて食べたよ」となる。にも関わらず、自分はケーキを食べられなかった。

こんなふうに考える子供はいないだろう。いたら、知的・言語的発達に問題がある。次の会話なら、おかしくはない。

二郎「昨日、おとうさんがケーキ買ってきてくれて食べたよ」
一郎「えー、俺、ケーキ食べてないよ」

人が家庭や会社という組織内に位置付けられた場合は、役割・立場で呼ばれることが普通である。「おとうさん」を「鈴木明さん」と呼ぶ子供はいないだろうし、会社でも「鈴木さん」より「係長」のほうが普通の呼称だろう。

組織への所属とは無関係な友人のあいだでは「おい、鈴木」「明くんはどうなの?」もありだが、組織・システム・構造の構成素〈constituent〉として位置付けられるとき、固有名を持つ人であっても役割・立場・機能的特性などで呼ばれる。

我々は、縦の棒である「1」、横の棒である「一」という“図形”、あるいは「イチ」という“音”は、特定の自然数 1 を表すものだと長年に渡り信じてきた。つまり、「1」「一」「イチ」は、「鈴木明」のような固有名詞だと思っている。しかし、「1」「一」「イチ」を、「おとうさん」や「係長」のような組織・システム・構造内における役割・立場の名称だと解釈しなければならないときもある。

現在の数学は、公理的方法を採用しているので、固有名で指す具体的な個体/個物に言及することは少ない。実体が何であるかは問題にせずに、組織・システム・構造内における役割・立場や特徴付けだけで議論を進めることがとても多い。

圏論で言えば、「対象が具体的な実体として何であるか?」「射が具体的な実体として何であるか?」には出来る限り触れないで、対象/射が圏(という組織・システム・構造)内でいかなる役割を担っているのか、だけで議論したい -- ということになる。

ここらへんに関連したオハナシ(戯れ言)としては:

なにかを見るとき/判断するとき、そのモノが実体として何であるかを根拠にしてはいけない、てな話です。